とやまの文化遺産 とやまの文化遺産

文化遺産から見た
富山の歴史・文化

ここでは、富山県の国・県指定文化財などの文化遺産、自然遺産を通して、特色ある富山県の歴史・文化を紹介する。

富山のあけぼの
(旧石器時代~古墳時代)

日本人の祖先は、ナウマンゾウなど大型動物を追って、約4万年前に日本に到達した。富山にも後期旧石器時代(約3万8千年前)の遺跡があり、約1万5千年前の立美遺跡(南砺市)では青森県で採取された黒曜石で作った石器が出土している。

立美遺跡出土品(富山県埋蔵文化財センター所蔵)

約1万年前、気候が暖かくなり、多彩な海や山の恵みが人々の生活を支えた縄文時代には、各地で特色ある集落が営まれた。不動堂遺跡(朝日町)では全国最大級の竪穴建物を中心とした集落が営まれ、境A遺跡(朝日町)ではヒスイ装飾品が大量に作られ、全国に運ばれた。

不動堂遺跡(朝日町)
境A遺跡出土品(朝日町)

稲作が伝わった弥生時代には、ムラのリーダーに権力が集中し、身分の差があらわれる。「倭国大乱」の緊張が走る後期になると、富山でも防御性の高い集落を築き、ほかの地域とつながりを強めた。後期には方形周溝墓が造られ、終末期には山陰地方との積極的な交流を示す「四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)」という珍しい形の墳墓が、王塚・千坊山遺跡群(富山市)で造られた。

王塚・千坊山遺跡群(富山市)

古墳時代になると、畿内に誕生したヤマト王権の支配体制に組み込まれ、各地で古墳が造られた。前期には、日本海側最大級の前方後方墳の柳田(やないだ)布尾山古墳(氷見市)や前方後円墳など大型古墳が築かれ、中期以降には稚児塚(立山町)のような円墳、飛鳥時代にかけて城が平横穴古墳(高岡市)のような横穴墓が造られた。

柳田布尾山古墳(氷見市)
稚児塚(立山町)
城が平横穴古墳(高岡市)

万葉歌人・大伴家持の世界
(飛鳥時代~平安時代)

万葉故地の「荒磯」と「渋谷」(おくのほそ道の風景地-有磯海-(高岡市))

飛鳥時代、唐の律令制を取り入れ、天皇中心の政権運営を実現するため、地方に国司が派遣された。奈良時代には、大伴家持が国守(くにのかみ)(国司の長官)として越中国に赴任した。当時の越中国は能登を合わせた大国で、家持は政務の傍ら各地で歌を詠んだ。現存する日本最古の和歌集の「万葉集」には、家持の歌223首を含む、越中にまつわる歌が337首もある。こうした越中万葉ゆかりの地も県内各地に点在する。
「立山に 降りおける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし」。家持は立山を題材に歌を詠んでいる。当時の立山は仰ぎ見る「神の山」だったが、平安時代には、地獄や浄土信仰を背景とした神仏習合の密教や修験道の影響により「仏の山」に姿を変えていった。立山周辺には信仰にまつわる遺跡や遺物が数多く残されている。

称名滝(立山町)。
滝の轟音が念仏に聞こえたことからその名がついた
立山地獄の景観
(称名滝とその流域-地獄谷-(立山町))
銅錫杖頭附鉄剣
(富山県[立山博物館]所蔵)。
明治40年に劔岳山頂で発見された
大岩日石寺磨崖仏(上市町)

一方、飛鳥時代~平安時代の射水丘陵には窯業・製鉄の官営工房が営まれた。なかでも小杉丸山遺跡(射水市)は瓦と須恵器を焼いた7世紀後半の窯跡で、瓦は約17km離れた高岡市伏木にあった国府推定地近くの遺跡(寺院)で発見されている。
また、奈良~平安時代の平野部では、墾田永年私財法(天平15年(743))をきっかけに、有力寺院の荘園が生まれた。じょうべのま遺跡(入善町)は、現在の杉沢の沢スギ(入善町)で見られるような礫が転がる荒地や原生林を開墾して成立した荘園を管理する役所跡である。

小杉丸山遺跡(射水市)
じょうべのま遺跡(入善町)
杉沢の沢スギ(入善町)。河川敷のような円礫が転がっている

武士の時代
(鎌倉時代~安土・桃山時代)

平安時代末、武士が台頭し源平合戦の時代を迎えると、越中でも国人(地域の支配者)が源義仲に従い、倶利伽羅合戦に勝利し、京に攻め上った。平氏滅亡後、鎌倉時代になると、越中では、潟湖が広がり交通の要所であった放生津(ほうじょうづ)(射水市)に守護所が置かれた。
室町時代、京都に在住する守護に代わって、守護代の遊佐(ゆさ)・神保・椎名の3氏が越中を分割して統治した。一方、文明3年(1471)の吉崎御坊(福井県)の建立に伴い、浄土真宗が本格的に北陸に広がった。室町後期には、加賀一向一揆や、そこから独立した瑞泉寺や善徳寺(南砺市)、土山御坊(後の勝興寺)を中心とする越中一向一揆が、力をもつようになった。

護国八幡宮(小矢部市)。源義仲が戦勝を祈願した
増山城跡二ノ丸北空堀(砺波市)。神保氏の居城

一向一揆や越後守護代の長尾氏(後の上杉氏)の介入のため、越中では一国を支配するような戦国大名は生まれなかった。上杉謙信は、反抗する国人や一向一揆を破り、天正4年(1576)に越中を手中におさめた。しかし、天正6年(1578)に謙信が急死すると、天下統一を目指す織田信長が越中を攻め、家臣の佐々成政が天正11年(1583)に越中を平定した。
本能寺の変後、羽柴(豊臣)秀吉が信長の後を継いだ。北陸では、反秀吉の成政と親秀吉の前田利家が抗争を繰り広げたが、天正13年(1585)、秀吉の越中出陣で成政は降伏した。成政は肥後(熊本県)に国替えとなり、加賀前田家が、加賀・越中・能登120万石を支配することとなった。ここに「加賀百万石」の原型が誕生したのである。

松倉城跡本丸(魚津市)。椎名氏の居城で、後に上杉謙信の家臣が入った
安田城跡(富山市)。秀吉の越中攻めの際に築かれた

歴史都市「高岡」の始まり
 ―利長・利常兄弟の活躍― 
(江戸時代)

高岡城跡(高岡市)

秀吉と利家の死後、徳川家康が関ヶ原の戦い(慶長5年(1600))に勝利し、天下人としての地位を確かなものにした。慶長10年(1605)に弟の前田利常に家督を譲った利長は、慶長14年(1609)、焼失した富山城に代わる隠居城として高岡城を築き、城下町を整備した。ところが、慶長19年(1614)に利長が亡くなり、「一国一城令」で高岡城が廃城となると、城下町は賑わいを失った。城下町の衰退を目の当たりにした利常は、高岡を商工業の町に転換する再興政策をとり、利長の菩提を弔うため瑞龍寺や御廟(墓所)を造立するなど、現在に至る歴史都市「高岡」の礎を築いた。

瑞龍寺(仏殿)(高岡市)
前田利長墓所(高岡市教育委員会提供)

花ひらく越中の江戸文化

立山信仰

江戸時代の立山信仰は民衆の間にも広まった。岩峅寺や芦峅寺の衆徒(宿坊の当主ら)は、全国各地で「立山曼荼羅」の絵解きを行い、立山登拝や布橋灌頂会への参加を勧誘した。その結果、江戸後期には、全国各地から立山に人が集まり、大いに賑わったという

立山曼荼羅(富山県[立山博物館]所蔵)

富山売薬

寛永16年(1639)に加賀藩から分藩した富山藩は、当初から財政難に陥っていた。2代藩主の前田正甫(まさとし)は産業振興を目的に「売薬」を奨励、富山売薬は「置き薬」と「先用後利(せんようこうり)」という独特の販売戦略で藩を支える一大産業に成長した。現在もこの仕組みは残っており、旧金岡家住宅(富山市)のような薬種商の屋敷や道具類を見ることができる

旧金岡家住宅(富山市)

北前船

17世紀後半、より安全で大量の物資輸送を目的に「西廻り航路」が整備された。北前船は商品経済の発展とともに、江戸後期~明治中期にかけて隆盛を極めた。旧森家住宅(富山市)などの廻船問屋からは、往時をしのぶことができる。

旧森家住宅(富山市)

富山県の近代化―明治の治水、
大正の発電、昭和の都市計画

富山県は、明治16年(1883)に石川県から分県。治水を優先したい富山側と、道路整備を優先したい石川側の主張が対立したことが主な理由である。その後、富山県は河川改修や砂防を積極的に取り組み、土木費が予算の80%を超える年もあったほどである。
大正から昭和初期にかけ、河川を天然資源として活用するため、各地で水力発電が始まった。安価で安定した電力供給を必要としていた工場が次々と建てられ、昭和3年の「富山都市計画事業」もあって、富山市街地の近代化、工業化が進んだ。太平洋戦争末期の昭和20年(1945)8月1~2日、米軍の「富山大空襲」により富山市街地は焦土になったものの、富山県庁や電気ビルは空襲を乗り越え、昭和初期の近代化の威容を今に伝える。

富山電気ビル(富山市)
富山県庁(富山市)
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