豊かな自然と美しい景観から、世界に誇る観光地となった立山。観光客が行き交う立山黒部アルペンルートの東にある「立山カルデラ」は、幕末の大地震で幕を開けた、人と自然の150年以上続く戦いの舞台である。
立山砂防は、西洋から導入した近代砂防技術を発展させ、世界に広めた影響の大きさが評価され、平成29年(2017)12月8日に「日本の20世紀遺産20選」の3番目、土木施設としては1番目に選ばれた。
安政5年2月26日(1858年4月9日)、富山県と岐阜県に跨る跡津川断層を震源とするマグニチュード7.1の大地震が発生。震源に近い立山カルデラ(東西約6.5km、南北約4.5km)では、大鳶山・小鳶山が崩れ、4億㎥もの土砂が常願寺川上流の湯川と真川をせき止めた。
安政5年3月10日と4月26日(1858年4月23日、6月7日)に、このせき止め湖が決壊し、土石流が富山平野を襲った。2億㎥の土砂が広い範囲を埋め、死者140名、負傷者8945名という記録が残っている。
この災害で河床が高くなった常願寺川では水害が倍増し、「日本一の暴れ川」となった。カルデラに残された2億㎥もの莫大な土砂は明治以降も下流に流れ、人々の命と生活を脅かした。
明治16年(1883)、治水を重点的に実施するため、富山県が石川県から分県。明治24年(1891)、オランダ人技師ヨハネス・デ・レイケが招聘され、高田雪太郎ら県土木技師と協力して、霞堤の築造、河川の分離、用水の合口化など、日本の治水技術も活かした下流の治水を行った。しかし、カルデラの土砂を治めることは、当時の技術では不可能だった。
立山砂防の歴史
明治39年(1906)、富山県はカルデラでの砂防工事を開始した。20年計画の大プロジェクトだったが、建設中の石積み砂防堰堤が大正8、11年(1919、1922)に発生した土石流で壊滅的な被害を受けた。県営砂防工事は中止を余儀なくされたが、県や県民の強い働きかけもあり、大正13年(1924)に砂防法が改正され、砂防工事の国営化への道が開かれた。
大正15年(1926)、オーストリアで近代砂防技術を学び、後に「近代砂防の父」と評される赤木正雄が立山砂防工事事務所の初代所長となり、国営砂防工事が開始された。赤木の計画は、巨大な砂防堰堤の建造を中心に、植林などの日本古来の治山技術を組み合わせた大規模で、独創的かつ総合的な砂防計画だった。
まず、大量の資材を輸送する「立山砂防工事専用軌道」を建設し(大正15年~昭和6年)、カルデラからの土砂流出を抑える「白岩堰堤」(昭和4~14年)と土砂の発生を防ぐ「泥谷堰堤」(昭和5~13年)を建造した。一方、中流で貯砂と土砂の調整を行う「本宮堰堤」は、内務省技師・蒲(かば)孚(まこと)の理論をもとに、富山県から国への委託事業として作られた(昭和10~11年)。
明治から昭和にかけて技術者たちが築き上げた、上流の砂防と下流の河川改修を連携させる「水系一貫」の構想は、昭和24年(1949)に「常願寺川改修改訂計画」で形となり、日本の砂防理論の規範となっている。
水系一貫の常願寺川砂防施設
砂防堰堤は、流れてきた土砂を受け止め、少しずつ流すことで、下流へ流れる土砂の量を調節する施設。貯まった土砂で川幅が広く、勾配が緩やかになり、川床・川岸の浸食や崩壊が抑えられ、土石流の勢いも弱める。また、緑を回復させ、新しい土砂の発生を防ぐために行われる、石積みや木柵の土留工や植栽工等からなる「山腹工」も砂防事業として行われる。
水系一貫の常願寺川砂防施設
「常願寺川砂防施設」は、河川を一体的に治める「水系一貫」の構想の基礎になった施設群で、日本の治水史上価値が高い。平成21年(2009)に白岩堰堤が砂防施設として全国初の重要文化財に指定され、平成29年(2017)に本宮堰堤、泥谷堰堤が追加された。
水系一貫の常願寺川砂防施設
カルデラの出口で、土砂の流出を抑えるために作られた立山砂防の基幹施設。本堰堤の高さ63m、副堰堤をあわせた落差108mは、砂防堰堤としては日本最大で、重力式コンクリート堰堤と方格枠を積み上げた土堰堤の複合構造を採用した、世界でも類を見ない規模と構造である。近代砂防の技術的な到達点を示し、学術的価値が高い。
水系一貫の常願寺川砂防施設
常願寺川中流域で、水系一貫の構想に基づいて建設された我が国最大級の貯砂量を誇る重力式コンクリート堰堤。大型施工機械を採用し、わずか2年の短期間で建造された。この時使われたコンクリート配給所の遺構(基礎石垣)が現存する貴重な事例でもある。
水系一貫の常願寺川砂防施設
土砂の浸食を防ぎ、崩壊地の植生回復に大きく貢献した、標高差120mの急傾斜の谷筋に建造された、22基(堰堤19基、床固3基)の長大な階段式の砂防堰堤。現在は、山腹工(土留めと排水路、植林)によって植生が回復し、緑あふれる小峡谷になっており、防災とエコを実現した好事例。
砂防工事の人員と物資の輸送を目的に、昭和6年(1929)に開通した軌道。昭和40年(1965)に作られた連続18段のスイッチバックが見どころで、山腹を縫うように高低差200mをかけあがる。
跡津川断層は、富山県南部から岐阜県北部またがる、総延長約60kmに達する日本有数の活断層。指定地は、常願寺川上流の真川の有峰湖の東に位置する大露頭で、向かって左の白い花崗岩と右の褐色の礫層が見事にずれている。
立山カルデラのほぼ中央に位置する、直径約30m、水深約5mの池。火口跡と考えられており、安政飛越地震をきっかけに熱水が湧いたことが名前の由来である。立山が活火山であることを示す証拠で、玉滴石という美しい鉱物(オパール)を産出する全国的にも希少な産出地である。
安政飛越地震に伴う土石流で流されてきた巨石。大部分が堤防に埋まっているが、高さ約7.2m、外周約32.4mあるという。この巨石のおかげで西大森より下流右岸の被害が少なくなったと伝わり、信仰の対象になっている。2mを超える巨石は「大転石」と呼ばれ、富山市大場や西番など中下流で40個以上確認されており、自然の驚異を今に伝える。