前田利長墓所は、現在、外郭の一部と内堀に囲まれた内郭が残る。巨大な石燈籠(いしどうろう)が並ぶ参道を抜けると堀に囲まれた内郭に突き当たる。内郭には、一辺15.5mの二段の基壇を持つ御廟(ごびょう)と、その上に高さ約8mの墓碑が立つ。基壇立面の蓮華(れんげ)図は、狩野探幽(かのうたんゆう)の下絵といわれ、加賀藩でも限られた場所でしか使われない赤戸室石に浮き彫りして仕上げられ、格式の高さを表している。
県内第二の都市で、県西部の中心都市である高岡。江戸時代に始まった鋳物産業を基礎に発展した金属製造業が盛んで、今なお多くの歴史資産が残る歴史都市でもある。
加賀前田家二代・前田利長(まえだとしなが)が、「高岡」と名付けた関野台地に城を築き、城下町を整備した。利長の家臣団をはじめ、多くの町人が城下町に集まり、町は急速に発展した。しかし、慶長19年(1614)、利長が亡くなり、高岡城が廃城となると、家臣団や町人は高岡を離れ、衰退していった。
それを憂慮した三代利常(としつね)は、町民の離散を禁止するとともに殖産興業(しょくさんこうぎょう)を促進して城下町を商工業都市に転換し、華やかな祭りや鋳物、漆工などの町人文化を育んだ。さらに、利長の遺徳を偲ぶ瑞龍寺(ずいりゅうじ)や前田利長墓所(まえだとしながぼしょ)を造り、かつて一向一揆で権勢を奮っていた勝興寺(しょうこうじ)に娘を嫁がせるなど、寺社仏閣を保護した。
慶長14年(1609)、利長自ら指揮を取り、わずか5ヶ月で城を完成させた。関野台地の地形を活かしつつ、巨大な堀を掘削し、大規模な盛土で造った郭に櫓(やぐら)、門、御殿などを建てて、土塁や石垣も築く大工事だった。
しかし、慶長19年(1614)に利長が亡くなり、元和元年(1615)に一国一城令が出されると、高岡城は廃城となったが、加賀藩の城下町の再興政策の一環として米蔵や塩倉が設けられ、堀や土塁など城の機能は残された。また、明治期の民間払い下げの危機には、高岡市民の保存運動もあって、明治8年(1875)に「高岡公園」として残されることとなった、現在も古城公園として市民に親しまれている。
高岡市提供
高岡城は、本丸を取り巻くように、連続的に馬出郭(うまだしくるわ)(※)を配する防御性の高い特徴的な縄張りで、「高岡城ほど理論的に馬出を使いこなし、純粋に城全体のプランに消化させた城は、日本の近世城郭の中でも唯一といえる」と城郭の専門家から高い評価を受けている。
土塁や水堀がほとんど破壊されずに今日に至り、本丸御殿の礎石など当時の遺構が地下に良好に残っており、江戸初期の築城技術を知る上で貴重である。
※馬出郭:虎口(こぐち)(城の入口)を防御または出撃するために、虎口の外に付けられた郭
旧北陸道沿いにあり、「高岡御車山祭りの御車山行事」で曳き回される山車を持つ山町筋は、防火に主眼を置いた明治中期の都市計画の記念碑である。現在の町並みは、江戸時代の町割りを活かしつつ、明治中期~昭和初期に建てられた、重厚かつ繊細な意匠をもつ土蔵造りの町家の中に、レンガ造りの洋風建築等の伝統的建造物が建ち並ぶ、特徴的な景観を形成している。
明治33年(1900)の大火で市街地の約6割が被災したが、すぐに山町筋の豪商たちによって、防火性能に優れた土蔵造りで再建された。漆喰で塗り固めた重厚な外観に、装飾のある鋳物の鉄柱や延焼を防ぐためのレンガ造りの防火壁など要所に洋風のデザインを取り入れる。
建物の壁の漆喰(しっくい)には珍しい黒漆喰もみられる。黒漆喰は、白漆喰に松煙墨(しょうえんずみ)や油煙(ゆえん)等を混ぜ、磨き仕上げは左官仕上げの中でも一番難しい技術とされ、山町筋の豪商たちはこの黒漆喰をふんだんに使っている。
菅野(すがの)家住宅(国指定重要文化財)は、土蔵造り建物の美の真髄ともいえる建物である。重厚な黒漆喰仕上げの外観の2階建平入りの町屋で、正面庇の天井飾の鏝絵(こてえ)や、軒を支える鋳物の柱など細部の華やかな装飾に特徴がある。数寄屋風の室内には銘木を使用し、鮮やかな朱壁とするなど、土蔵造りを感じさせない繊細な造りとなっている。
また、県内に唯一残るレンガ造りの大型建物である富山銀行本店は、当初は高岡共立銀行本店として大正4年(1915)に建てられた。東京駅の設計で有名な辰野金吾(たつのきんご)が監修し、清水組の田辺淳吉(たなべじゅんきち)が設計した本格的な擬ルネサンス風洋風建築物である。「赤レンガの銀行」と呼ばれて親しまれ、土蔵造りの町並みに威風堂々たたずんでいる。
前田利長が7人の鋳物師に屋敷地を与え、鋳物づくりを行わせたことに始まる。短冊形の敷地に道路に面して真壁(しんかべ)造りの主屋が建ち、中庭をはさんで土蔵を建て、さらにその背後に作業場を置いている。土蔵に防火壁の役割を持たせ、作業場からの失火の延焼を防ぐ工夫である。
当初は鉄製の日用品を製作していたが、次第に銅製の美術工芸品を製作するようになり、全国に広がった。明治以降は、銅器産地としての地位を確立し、海外にも盛んに輸出され、町は大いに栄えた。江戸初期の高岡城下町の整備で形成された町並みだけでなく、昭和初期までの優れた外観や質の高い造りの町家と、作業場や土蔵など鋳物製造に関わる建物が、現在まで良好に継承されている。
三代利常は、高岡の開祖利長の遺徳を讃えるため、菩提寺として三方を堀で囲まれた約12万㎡の広大な寺域をもつ瑞龍寺と、二重の堀に囲まれた180m四方の巨大な墓所を造営した。瑞龍寺と墓所は、八丁道とよばれる参道で結び、一種の聖空間を創り出した。
瑞龍寺は、利長の33回忌にあたる正保3年(1645)から約20年かけて建設され、往時には周辺に多数の塔頭(たっちゅう)が建てられていた。現在は、総門をくぐると2層建ての山門と回廊、回廊の反対側の禅堂と高廊下(たかろうか)の屋根が左右対称に並んでいる。山門から左右に延びる全長約300mの回廊に囲まれた美しい空間の中心に、仏殿(ぶつでん)、法堂(はっとう)、大茶堂(だいさどう)等が建つ。仏殿の屋根は鉛瓦葺きで、金沢城のように白く光っていた(現在は、環境へ悪影響を与えない亜鉛合金の屋根である)。
前田利長墓所は、現在、外郭の一部と内堀に囲まれた内郭が残る。巨大な石燈籠(いしどうろう)が並ぶ参道を抜けると堀に囲まれた内郭に突き当たる。内郭には、一辺15.5mの二段の基壇を持つ御廟(ごびょう)と、その上に高さ約8mの墓碑が立つ。基壇立面の蓮華(れんげ)図は、狩野探幽(かのうたんゆう)の下絵といわれ、加賀藩でも限られた場所でしか使われない赤戸室石に浮き彫りして仕上げられ、格式の高さを表している。
戦国時代は一向一揆(いっこういっき)の拠点として権勢を振るったが、天正12年(1584)以来、加賀藩との関係を深め、越中における触頭(ふれがしら)(宗派ごとに地域内の寺院の統制をおこなうために幕府や藩から任命された寺院)の地位を得て繁栄した。
周囲に堀と土塁が巡る広大な境内は城郭を思わせ、主に江戸後期に建てられた建物群の規模や造りはその格式の高さを伺わせる。本堂は約40m四方の巨大な建造物で、地方においては破格の規模である。大広間及び式台、書院、奥書院など近世の書院造の建物全体が残されている本坊は、地方では類を見ない。その他、経典を収蔵している巨大な輪蔵(りんぞう)がある経堂(きょうどう)や城郭の櫓(やぐら)のような鼓堂(こどう)など見所も多い。
近世高岡の文化遺産群
VR動画の視聴環境について
パソコンから視聴する場合
Chrome、Opera、Firefox、MS Edgeの最新バージョンをご利用ください。
スマートフォンから視聴する場合
最新バージョンのYouTubeアプリのダウンロードが必要です。
※VR動画はデータ量が大きいため、Wi-Fiを利用して視聴されることをおすすめいたします。
この動画は音がでます。
音量を調整してご視聴ください。