とやまの文化遺産 とやまの文化遺産

とやまの城

 全国で3万、4万ともいわれる「城」の多くは南北朝時代から江戸時代初め(14~17世紀)の間に築かれた。「城」といえば「天守閣」や「石垣」、「水堀」をイメージするが、それは織田信長の安土城以降の城で、城跡全体の1%にも満たず、残り99%は土を切り盛りして造った「土の城」である。富山県の城も「土の城」がほとんどで、信長の城のような城は富山城と高岡城のみである。

越中戦国史

(1)鎌倉~室町時代

 富山で最古の城は宮崎城跡(朝日町)と言われている。源平合戦の頃、治承4年(1180)、木曽義仲がこの地の豪族・宮崎太郎とともに、平氏追討の令旨を出した以仁王の子の北陸宮をこの城に迎え入れ、京都へ攻め上る足がかりとした。

 鎌倉時代になると、執権・北条氏の分家筋にあたる名越氏が守護を務め、放生津(射水市)に守護所が置かれる。室町時代には室町幕府の重臣・畠山氏が守護となり、守護代として遊佐・神保・椎名の3氏に越中を分割して統治させた。

朝日町宮崎城跡(県指定史跡)

(2)戦国時代

 応仁の乱以後、日本は戦国時代に突入する。越中も例外でなく、越後・長尾氏(のちの上杉氏)や甲斐の武田氏、浄土真宗の一向一揆による戦いの舞台となった。それまでの城は平野部に築く「館」が中心だったが、戦国色が濃くなると越中の武士も「山城」を築き、一向一揆の寺院は防御施設を加えた「城郭寺院」に発展した。

 戦国時代後半には、武田信玄が一向一揆や越中の武士を調略し、越中に侵攻する上杉謙信に対抗する。信玄が亡くなると、謙信は反抗する越中の武士を攻め滅ぼし、一向一揆と和睦し、天正4年(1576)に越中を平定する。
 しかし、上杉氏の越中支配も長くは続かず、天正6年(1578)に謙信の急死に伴う後継者争い(御館の乱)が勃発すると、信長の越中侵攻を許すこととなった。佐々成政をはじめとする織田氏家臣は上杉氏や一向一揆の城を攻め、天正11年(1583)に越中を平定する。

 その前年の「本能寺の変」で自害した信長を継いだ豊臣秀吉が台頭すると、成政は、加賀・能登を領する親豊臣の前田利家や、越中奪還を狙う上杉氏と戦いを繰り広げるが、天正13年(1585)に秀吉に降伏し、越中の戦国時代が幕を下ろす。成政や利家が加越国境に築いた山城(境目の城)は、この時の緊張状態を表している。

魚津市松倉城跡(県指定史跡)

(3)江戸時代

 越中は前田領となり、加賀・越中・能登からなる加賀百万石の礎が築かれた。その後、加賀前田家2代・利長は家督を弟の利常に譲り、富山城に隠居したが、慶長14年(1609)に焼失したため、わずか半年で高岡城を築き移り住んだ。高岡城は、慶長19年(1614)に利長が亡くなり、翌年の一国一城令で廃城となる。
 寛永16年(1639)、利常は富山藩を加賀藩から分け、次男・利次を初代藩主とした。富山城に入った利次は、百塚(富山市)に城を築こうとしたが、財政難で諦め、万治2年(1659)に富山城を正式な城とした。富山城は越中唯一の現役の城として、明治4年の廃藩置県まで約200年続いた。

高岡市高岡城跡(国指定史跡、高岡市提供)

城の防御施設

 城の多くを占める山城は、一見普通の山にしか見えないものがほとんどである。山城の防御施設を覚えて現地を見に行くと、多くの発見があり、山城をより楽しむことができる。

山城の用語
曲輪・郭(くるわ) 斜面を切り盛りして、造成した平坦地のことで、城の中心となるところを主郭(しゅかく)(本丸)という。城主の居住する屋敷や、武士が詰める建物、食料や武器を保管する倉庫などが建てられた。
櫓台(やぐらだい) 曲輪の一角に一段と高く作られた物見台。
虎口(こぐち) 曲輪の出入り口。戦国時代に大きく発展した防御施設の一つで、土塁や石垣などを組み合わせ、あえて進路を屈曲させるなど、防御の工夫が見られる。
切岸(きりぎし) 曲輪などを作る際にできた人工的な急斜面で、できるだけ垂直にすることで、敵を寄り付かせなくすることができる。
土橋(どばし) 曲輪を巡る堀を虎口の前だけ堤状に掘り残した通路
堀・堀切(ほりきり) 敵の攻撃を防ぐため、曲輪の周りに掘られた大きな溝。山城では空堀が多い。尾根を分断する堀切も空堀の一種である。
竪堀(たてぼり) 斜面に沿って掘られた溝で、一列に上る敵を攻撃する時に有利だった。竪堀が連続するものは「畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)」と呼ばれ、敵の斜面での横の動きを封じる役割を持っていた。
土塁(どるい) 曲輪の周りに土を盛り上げた堤防で、敵の攻撃や侵入を防ぐ。

富山県の城

現在、県内では約400か所で城跡が確認されており、3つの特徴が挙げられる。

(1)山城が大半を占める

 里山と呼ばれる丘陵や台地上に築かれたいわゆる「山城」で城跡の約2/3を占め、平野部に築かれた城は少ない。現在確認されている最高所にある城は標高約1,100mの杉山砦(南砺市)である。大半の山城は標高約300m付近に築かれている。

・増山城跡(砺波市)

 越中三大山城のひとつ。起源は南北朝時代といわれ、室町・戦国時代には守護畠山氏の守護代神保氏歴代が城主となり、砺波、射水、婦負地方の軍事、政治、文化に大きな役割を果たした。織田信長の越中制圧でその勢力下に入り、前田氏の持ち城になった。廃城は元和元年(1615)と言われる。

増山城跡二ノ丸北空堀。大堀切が随所に見られる。

(2)城郭寺院が造られる

 文明3年(1471)、浄土真宗8世・蓮如が越前に吉崎御坊を造ったことをきっかけに、北陸全体に浄土真宗(一向宗)が広がり、一揆勢力が力を持つようになる。越中では瑞泉寺と勝興寺が一向一揆の拠点となり、寺の周囲に堀や土塁を巡らせ要塞化が進み、城のような防御機能を備えるようになった。現在も寺社の片隅に堀や土塁が残っていることがある。

・井波城跡(南砺市)

 井波の町並みを見下ろす八乙女山の麓に築かれ、瑞泉寺の南に隣接する。明徳元年(1390)建立の瑞泉寺は、戦国時代に一向一揆を率いて福光城主・石黒氏を破るなど権勢を振るった。瑞泉寺は土塁や堀を整備するなど寺域を要塞化し城郭寺院(井波城)を形成したが、天正9年(1581)に佐々成政によって焼かれ、後に現在地に移り再建された。現在、城跡には井波八幡社等が建立され、その周囲に大規模な土塁や、南側に堀が残っている。

(3)加賀・能登との国境に城が多く分布する

 越中は、西は加賀・能登、南は飛騨、東は越後に接しているが、南と東は険しい山岳地帯のためほとんど城は築かれなかった。これに比べ、西側は比較的なだらかな山地であり、歴史的にも源平合戦の頃から戦いが繰り広げられた地域である。これに加え、戦国時代末には越中を平定した佐々成正と加賀・能登を治めた前田家との戦いのため、双方が国境警備のための城を築いた。

・森寺城跡(氷見市)

 南北約1.2km、東西約0.5kmに及ぶ山城で、越中と能登の国境近くに立地する。能登守護畠山氏が16世紀初めに築城し、その後上杉氏を経て、佐々成政の城となった。城内に、荒山峠を経て能登へ至る道を取り込んでおり、国境を守る城としての役割を持っていた。
城内には、土塁・堀切・竪堀などの遺構が良く残り、本丸・二の丸の虎口や土塁などに石垣が築かれており、織豊系城郭の地方伝播を示す一例と評価されている。

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